先日、スティーブン・オカザキ監督の『ヒロシマ、ナガサキ』を見た。
アメリカと日本、双方の原爆に対する見方をそれぞれ綴っていた。 見解は多様だ。 被害を受けた側と、加害という言葉が適切かは別として、投下したアメリカ政府。 60年の歴史を経て、原爆をどう教育していくか。 原爆の是非。 私の見解は、こうだ。 原爆の是非を問うまでもなく、原爆は悪であり、投下したことが正しいか、 また間違っているかを我々人間が判断すべきものではない。 戦略としての正否も、結果論としての歴史も、全て後付に思う。 人間が有史以来もっとも凶悪な人殺し兵器は、廃絶する必要がある。 触ってはいけないところ、パンドラの箱に安易に手を出したそのツケは どう返ってくるのだろう。 そして、原爆のみならず、人を殺す兵器全てに対して確固たる[NO]を言いたい。 原爆の悲惨さは語る必要もない。 その威力、スピード、広範囲、瞬時なる破壊力。 それらが地上における最大の大量破壊兵器である事実を別にすれば ピストルも銃も、軍艦も、大砲も全て正しさなんてものはない。 原爆だけを特別に扱う前に、我が国日本も真珠湾攻撃から始まり、 散々人を殺してきたことを結果を招いた原因として語る必要がある。 その殺戮行為は、この日本もアメリカも皆、やってしまったのだ。 原爆を落とされたことが全てではない。 その原因をぬきに、単なる被害者になるべきではない。 日本国民に戦争責任が全てあるわけでもないが、当時の統治者たちは 国民を牽引し、国のために他国を滅ばすことさえ辞さないイデオロギーを 日本英雄主義をアジアをはじめ世界に訴えでようとしていた。 そのイデオロギーに国民は大方賛同していたのだろう。 洗脳ともとれるその傾斜は、非常に危険な思想をもたらしたとはいえ、 国民の判断は、他国への侵略を受け入れたともみれる。 そして残忍卑劣な行為も、おそらく、事実だろう。 その野蛮行為と原爆のどこが、違うというのか。 被害者でもあり、加害者でもあるのが戦争。 自国の正当化は、欺瞞であり、傷つけた人たちの傷に油を注ぐ。 久間元大臣の発言で憤慨して思いは、他国の人たちの憤りと何ら変わらない。 そろそろ私たちは、国としてではなく、世界として、全体として、 世界が一つの単位であるように、考え行動することに本気にならなければならない。 競争原理は、いつまでも続くわけがない。 誰かがトップに躍り出るまで、その幻想が持ちこたえるかどうかだ。
by nyaromejp
| 2007-08-07 18:25
| 世の中
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